ケシについて

ヨーロッパ東部〜ヨーロッパ南部に住んでいた新石器時代の部族によって、

ケシが利用されていました。

そして、ケシの種子が完熟するまでの間に麻酔効果がある乳液が摂取できます。

つまり、アヘン、モルヒネ、ヘロインの原料になります。

古代ギリシア時代は、ケシの鎮痛作用と薬効として活用しました。

ちなみにアヘンは、ケシの実から採取される果汁を乾燥させたモノです。

モルヒネは、痛みを脳に伝える神経の活動を抑制して鎮痛作用するオピオイド系の化合物です。

ヘロインは、アヘンに含まれているモルヒネから作られるオピオイド系の鎮痛剤の商品名です。

ケシについて

ケシは、ケシ科ケシ属に属する一年草の植物です。

別名は、芥子、罌粟です。

 

アヘンは、中華人民共和国の国力が弱体化した大きな要因の1つです。

最終的に日本やヨーロッパ諸国などの侵略国からの攻撃に対して、脆弱になりました。

アヘンの原料であるケシは、インド産です。

そしてイギリス、フランス、アメリカ合衆国が、アヘン剤供給先としてカルテルを構築して、

インドの栽培農家と中華人民共和国の消費者の双方に不幸を蔓延しました。

つまり、欧米諸国による代理人です。

●アヘンは、医薬品として利用されています。

25種類のアルカロイドが抽出できるので、ベラパミル(不整脈の治療薬です)、

コデイン(鎮痛剤、咳止め薬、風邪薬です)、モルヒネ(痛みの緩和です)、

パパベリン(消化管の治療薬です)などに利用できます。

●カルテルは、複数の企業が連絡を取り合って、本来各企業が

それぞれ決めるべき商品の価格や生産数量などを共同で取り決める行為です。

 

1500年代、ヨーロッパ諸国はアフリカ、インド、中華人民共和国との間で

塩、象牙、金、黒蜜、陶器、シルク、ビーズ、子安貝、奴隷などの交易が始まりました。

その後、ポルトガルやスペインが貿易の独占をしました。

さらにドイツ、フランス、イギリスなども参入していきます。

基本的にアフリカ諸国とインドは、積極的に貿易をしました。

しかし、中華人民共和国は貿易を認める気配があまりない状態でした。

 

中華人民共和国は、既に国内市場を持っていたので、

シルク、陶器、中国茶などを国内で調達する事ができます。

そして、貿易として金や銀などの貴金属は大歓迎でした。

つまり、西洋からの輸入しなければならない商品自体が実質的にないです。

中国の王朝は、世界の中心の立ち位置として考えていたので、

安定と安全で自給自足を行っていました。

 

欧米諸国は、収益性が高い貿易を受け入れない中華人民共和国に対して、苛立ちました。

そして、自主的な貿易ルールを開拓しました。

たばこは、ポルトガルの植民地であるブラジルの畑から栽培しました。

ケシは、イギリスの植民地であるベンガルの畑からインド産アヘンを輸入しました。

その後、イギリス東インド会社はイギリス政府の支援を受けて、ケシ栽培農家を

東インド会社に囲い込んで、インドでアヘンを買い入れ加工するビジネスを構築しました。

 

高速船で運び屋を使用したイギリスは、

港湾から中華人民共和国へインド産アヘンを持ち込ませました。

結果的に高速船が中華人民共和国の港を出入りするようになりました。

中国港湾当局者が上司にアヘン貿易の存在を知られないように賄賂を駆使しました。

つまり、東インド会社はアヘンの供給と価格を管理できました。

 

イギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していました。

しかし、イギリスから清へ輸出されるモノが時計や望遠鏡などの富裕層向けの商品でした。

大量に輸出可能な製品が存在しなかったので、イギリスの大幅な輸入超過になりました。

つまり、貿易摩擦です。

そしてイギリスは、産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保目的で

銀の国外流出を抑制する政策を始めました。

イギリスは、植民地であるインドで栽培した麻薬のアヘンを

清に密輸出する事で超過分を相殺して、三角貿易を整えました。

 

18世紀、アヘンによる利益は21世紀のクラック・コカインと同等水準です。

莫大な利益によって、世界中の商人が中華人民共和国へ引き寄せられました。

競争相手先として西インドのマールワー産アヘンも浸透していきました。

さらに、トルコ産アヘンも暴利目的で増えていきました。

アヘンの供給量が増えた事でアヘン価格が下落してアヘン中毒者の割合も上昇しました。

●クラック・コカインは、煙草で吸引できる状態にしたコカインの塊です。

 

1729年、中国当局はアヘンに対して抵抗しました。

アヘン禁止の命令が発布していましたが、アヘン中毒者が

多すぎて中国社会の不安定化に繋がりました。

麻薬密輸業者に対抗する中華人民共和国側の行動も武力外交に発展しました。

 

アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対して、

アヘン全面禁輸を断行してイギリス商人の保有するアヘンを没収や処分しました。

1840年代、イギリスが反発して2度に渡るアヘン戦争が始まりました。

イギリスは、軍艦を送り込んで貿易の権利を主張しました。

しかし、中華人民共和国はアヘン中毒者による軍事力が貧弱化していたので敗戦しました。

 

1851年、太平天国の乱が起きました。

当時は、アヘン中毒者の急増で食べ物を賄う為に小規模農家が必死で農業をしました。

中国政府は、アヘン戦争の賠償金支払いの為に農民に重税を課税しました。

重税を課せられた人々は困窮化して、清朝に対して不満を抱きました。

農民反乱者は、土地を占領して地主を追放しました。

土壌の質と収穫量によって畑を等級付けをして、土地の管理を共同体に譲渡しました。

 

弱体化した満州族による清政府は、太平天国の乱を鎮める為に

フランス、アメリカ合衆国、イギリスに支援を要請しました。

結果的に討伐支援を受けましたが、アヘン戦争後に

欧米諸国からアヘンの合法化を要求されました。

つまり、中華人民共和国はアヘンを合意しました。

1842年、南京条約が締結しました。

貿易完全自由化、イギリスへの香港の割譲他、賠償金の支払い、中華人民共和国の

広州、福州、廈門、寧波、上海の5港開港です(清にとって不平等条約です)。

最終的に第2次世界大戦までアヘン中毒が続きました。

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