ヴェネツィア商人について

16世紀、胡椒を産地から胡椒壺へ届ける陸路の交易は、長い月日がかかります。

そして胡椒は、インドのバザールで取引開始します。

荷馬や騾馬などに胡椒を載せてパキスタンの山岳地帯を登ります。

その後、アフガニスタンに入って、イラン、イラク、シリアに運ばれます。

さらにトルコ、バルカン諸国を経由してヴィネツィアに到着します。

当時の貿易の中心地は、イタリアのヴェネツィアです(ベネチアです)。

目次

ヴェネツィア商人について

ヴェネツィア商人は、地中海の商業都市であるヴェネツィアで商売する人です。

十字軍運動(キリスト教徒の異教徒と異端者の戦いです)を境に

東方貿易を活発に行うイタリア商人が大きな利益を上げました。

11世紀以降は、三圃制農業(農地の地力低下を防ぐ目的です)の普及によって、

ヨーロッパ地域の生産力が高まりました。

貨幣経済が復興して商業ルネサンスとして栄えました。

 

14世紀のイタリアのヴェネツィアは、香辛料の宝庫である東洋と

香辛料に飢えた西洋の間に位置しています。

主な繁栄した都市は、ベルガモ、パドゥア、ブレシア、ヴェローナ、ヴィチェンツァなどです。

特に貿易で繁栄していた地域は、クレタ島、キプロス島です。

つまり、貿易の要衝です(繁栄の主な要因です)。

繁栄した国家なので度々ゴート族(東ゲルマン系民族です)や

フン族(遊牧民です)などの侵略に晒されていました。

ちなみに、北イタリアの小さな部族であるヴェネト人は、ローマ帝国に対する忠誠の見返り

としてローマ支配者からイタリア北東部、アドリア海に面した湿地と島などを与えられました。

 

資本力があるヴェネツィア商人は、豪邸を建設しました。

胡椒の実を与えてくれる神への感謝の印として豪華な教会を建てる事もありました。

そして富裕層は、途方もない富を運用する方法を編み出しました。

初期の銀行システムを開発しました。

キリスト教や法令によって高利貸しが禁止になっていた中、フィレンツェ共和国銀行家として

活動していたCosimo de' Medici(コジモ・デ・メディチです)さんは、

手堅い経営でメディチ銀行を経営しました。

スイスのジュネーブ、イタリアのローマ、イギリスのロンドン、イタリアのミラノ、

イタリアのピサ、イタリアのヴェネツィアなどに支店を配置しました。

 

16世紀、オスマン帝国がヴェネツィア貿易を規制しました。

スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスなどが

高価なスパイスを求めていたので、ヴェネツィア商人は他のルートの開拓が始まりました。

しかし、ヴェネツィアの銀行業が雲息が怪しくなっていきました。

そしてポルトガルは、希望峰を通じてインド洋航路を開拓しました。

胡椒の原産地であるインドで直接スパイスを買い入れました。

さらにスパインは、アメリカ合衆国へ航路を進行しました。

当時は、胡椒の値段が上がっていきましたが(一時期は、金の価格に匹敵していました)、

西インド諸島で胡椒の貿易が開始してヴェネツィアの銀行業が破綻していきました。

メディチ家について

1347年、地中海諸島にペスト(ペスト菌による感染症です)が流行りました。

1348年、ペストがヨーロッパ全域に広がりました。

その後、メディチ家はペスト治療薬の販売によって莫大な財を築きました。

1397年、メディチ銀行を設立しました。

当時は、バルディ商会やベルッツィ商会などの商人がイングランド王に対して、

貸付で失敗して倒産しました。

メディチ銀行は、手堅い経営で銀行家として地位を築きました。

 

基本的にメディチ銀行は、情報ネットワークを構築しました。

ローマ教皇庁会計院の財務管理者になって教皇庁の金融業で巨大な富を得ました。

当時の王室や教会などの支配階級に対して、

金融スペシャリストである銀行家は重要視されました。

特に戦争や疫病などによる資金調達が最重要だったからです。

 

メディチ家の手腕は、手数料ビジネスです。

キリスト教は、利息を取る行為を禁じています。

つまり、メディチ家は外国為替取引で商売をしました。

手数料として利子ではない品目で利子として得ました。

為替や地代(レントです)などと組み合わせる事によって、

実質的な利子貸付が可能になりました。

 

メディチ家は、莫大な私財を活用して政界へ進出しました。

そしてメディチ家の親族をローマ法王として輩出して、

イタリアのトスカーナ大公国の君主に任命しました。

ルネサンス時代は、多くの芸術家のパトロンとして支援をしました。

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