報復兵器について
第2時世界大戦時に開発した報復兵器は、主に2種類あります。
フィーゼラーFi-103で有名なV-1飛行爆弾(無人ジェット機です)と
V-2ロケットで有名な液体燃料ミサイル(弾道ミサイルです)です。
2種類の報復兵器は、ナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党です)の
全国宣伝指導部に所属していたPaul Joseph Goebbels
(パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスです)さんが、対イギリス報復の為に命名しました。
目次
報復兵器について
報復兵器は、第2次世界大戦にドイツ軍のミサイル・ロケット兵器の総称です。
ロケットは、力が作用する時に大きさが等しい反対向きの力(反作用です)が働きます。
つまり、ニュートンの法則(第3の法則です)です。
一端から吹き出した高音ガスは、ロケットをもう一方の端の方向へ推進できます。
ロケットは、推進剤を詰めた一端の開いた筒です。
ちなみに推進剤は、開いた方の端から吹き出してロケットを推進させる物質です。
高圧水から圧縮空気、高音ガスを生成する爆薬まで利用できます。
そしてロケットは、推進力を自らから生み出します。
つまり、発射装置に反動が生じずに比較的軽量なフレームからでも発射できます。
衝突時までにきな運動エネルギーを生成する事が可能です。
報復兵器の歴史について
15世紀、中華人民共和国とインドでロケットを使用していました。
その後、インドのロケットをきっかけにイギリス人が興味を持ち始めました。
1804年、王立工廠の監査官として活動していたWilliam Congreve
(ウィリアム・コングリーヴです)さんは、
コングリーヴ・ロケットのロケット開発に着手しました。
19世紀、イギリス軍とアメリカ合衆国軍はコングリーヴ・ロケットを使用しました。
しかし、当時は火砲の火力、命中精度、射程が貧弱でした。
ヴェルサイユ条約(第1次世界大戦で連合国とドイツ国の間で締結された講和条約です)
によって、ドイツは新たな投射兵器の開発を禁じられました。
しかし、ヴェルサイユ条約はロケットに関する条項が記載されていませんでした。
当時のロケットは、実用的軍事価値が見出せていなかったからです。
1930年、ドイツでv-2ロケットの開発が始まりました。
1932年、ドイツ軍部はロケットに強い関心を覚えました。
ドイツ国防軍少将として活動していたWalter Robert Dornberger
(ヴァルター・ロベルト・ドルンベルガーです)さんと科学者として活動していた
Wernher von Braun(ヴェルナー・フォン・ブラウンです)さんは、
アルコールと過酸化水素を活用したエンジンを搭載したA4ロケットを開発しました。
加速して30秒以内に音速を超えて、大気圏に97km(キロメートルです)突入します。
その後、V-1飛行爆弾に繋がります。
1939年と1941年、2度に渡ってV-1飛行爆弾の使用をドイツ空軍が却下しました。
しかし、1942年にV-1飛行爆弾計画の許可が下りました。
短く太い翼がある機体上部のポッドにパルスジェット1基、
機首に爆発物を搭載した航空機を設計しました。
誘導制御システムは、ジャイロスコープ、磁気コンパス、
気圧高度計、風向風速計が採用されました。
1942年、連合軍はスパイ活動を通じてV-1開発を知りました。
1943年、第61代イギリス首相として活動していた
Sir Winston Leonard Spencer Churchill
(サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチルです)さんは、
製造と発射を妨害するクロスボウ作戦を開始しました。
連合軍の爆撃機は、バルト海沿岸ペーネミュンデにある
ロケット研究センターを攻撃しました。
しかし、限定的でしたがV-1用に建設された96箇所の発車場のうち73箇所を爆破しました。
ドイツ軍は、V-1飛行爆弾を月5000発の発射計画が、
80日間で1万500発をイギリスに向けて発射しました。
そしてイギリス軍は、対空砲がV-1飛行爆弾に対する防御法として認識しました。
V-1飛行爆弾の結果、イギリスのロンドンに大きな被害をもたらしました。
対空防御による飛行爆弾の破壊率は、1回目が24%(パーセントです)→
2回目が46%→3回目が67%→4回目が79%に上昇しました。
1944年、V-2ロケットが完成して、いつでも使用できるようになりました。
半年間に渡って3172発が発射されました。
超音速で飛ぶので、追跡対策や迎撃対策になりました。
V-2ロケットは、ミサイル1発当たりの死亡率が11.06です(V-1の場合は2.7です)。
結果、イギリスのロンドンは約11万5000人が死傷しました。