大砲について

火薬は、中華人民共和国から中世イスラム世界へ広がりました。

アラビア人は、マドファ(アラブ地域で使用されていた銃です)を開発しました。

ローマ花火(筒型花火です)は、火炎放射器の初期板として運用しました。

当時は、荒削りな火器として石でできた大きな球形の上に火皿が取り付けられています。

その後、ヨーロッパ人は鉄の壺を構想して瓶形や花瓶形の鉄の容器を編み出しました。

後に大砲の原型になりました。

目次

大砲について

大砲は、火薬の燃焼力を利用した砲弾を高速で発射して砲弾の運動量や

砲弾自体の化学的な爆発によって目標物を破壊する兵器です。

 

鐘を鋳造する方法が青銅製の大砲を鋳造する際に活用されました。

鉄製の大砲は、バラバラに壊れたり、破裂したりする事がありました。

鋳造した青銅砲は、信頼性が高く、規格化もしやすいです。

しかし、同じ鋳型を再利用すると、砲身の内腔を一定にできて同じ大きさの砲丸が使えます。

 

1449年〜1450年、ノルマンディの遠征(百年戦争です)でフランス・ヴァロワ朝の

第5代国王として活動していたCharles VII(シャルル7世です)さんは、

大砲によって16ヶ月で60の攻囲作戦を成功しました。

1453年、トルコのコンスタンティノープルの陥落で、オスマン帝国が巨砲によって、

東ローマ帝国の首都であったビザンティウムの難攻不落の城壁を打ち破りました。

つまり、ビザンツ帝国は滅亡しました。

オスマン帝国の第7代スルタンとして活動していた II. Mehmet(メフメト2世です)の

攻城砲列は、56門の大砲と12門のボンバードが設置されました。

 

1512年のラヴェンナの戦い(カンブレー同盟戦争です)と

1515年のマリニャーノの戦い(カンブレー同盟戦争です)で

フランス軍は、塹壕と土塁によって適切な軍事行動ができなくなりました。

結果、神聖同盟軍(スペインとスイスです)を大砲で撃破しました。

大砲は、大きさと重さによる取り扱いにくさが目立ちました。

戦場で再配置が難しく、戦闘が終わるまで留まらないといけないからです。

つまり、戦場の火砲は18世紀まで限定的な武器として利用されました。

大砲の歴史について

1000年、中華人民共和国で黒色火薬が発見されています。

1100年、中国人は主に火薬を戦争で使用していました。

当時は、爆弾、ロケット、火炎放射器に限られていました。

1326年、プランタジネット朝のイングランド王として活動していた

Edward III(エドワード3世です)さんに献上された初期型大砲を見物しました。

 

1331年、イタリアのチヴィダーレ・デル・フリウーリで火器が使用されました。

初期の大砲は、ボンバード(射石砲です)です。

ボンバードは、銃身と同じ製造工程で鉄から建造します。

鉄輪を鉄の側板の周囲にしっかり溶接して、広い砲口の短砲身のボンバードを製造しました。

石弾は、発車の際に粉々にならないように鉄輪で縛り事がありました。

基本的に木製の台木、固定式の砲架に設置されました。

 

1346年、イングランド軍はクレシーの戦い(百年戦争です)で数門を配備しました。

1360年、ボンバードが普及して他の武器と同様に一般化しました。

1364年、手銃は金属の管を木製の台に縛り付けただけでした。

1419年、砲車に載せた大砲がフス戦争で導入しました。

1450年、フォルミニーの戦い(百年戦争です)で大砲が活躍しました。

イングランド軍長弓隊を陣地から追い出して、フランス軍騎兵に馬で踏みつけました。

1453年、カスティヨンの戦い(百年戦争です)でイングランド軍が、

火砲を装備したフランス軍に撃破されました。

 

1457年、モンス・メグ砲(中世時代の射石砲です)が、スコットランド王として

活動していたJames II(ジェームズ2世です)さんに贈呈されました。

全長4m(メートルです)程度、重さが6t(トンです)程度、

150km(キロメートルです)以上飛ばす事ができます。

ちなみに1681年、モンス・メグ砲は王族の誕生日に祝砲を撃ちましたが破裂しました。

 

15世紀、大砲はフランスのビュロー兄弟が鋳鉄製の砲弾を導入しました。

鋳鉄砲弾は、内腔によって密着します。

放り投げるのでなく、発射する事ができます。

そして鉄級は、石の砲丸がより頑丈なので潰れにくいです。

小型砲丸は、より破壊的な結果に繋がりました。

攻城砲列は、より機動力を向上する事になりました。

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