フランス軍の戦略について
第1次世界大戦後は、フランスは本土防衛をマジノ線しました。
有事は、マジノ線に構築された陣地に配備する歩兵に注力しました。
そして第1次世界大戦の塹壕線を要塞線に置き換えました。
さらにフランス陸軍は、かつての戦車が主力である歩兵を
掩護する為の兵器の考え方を脱却できなかったからです。
ちなみにマジノ線は、対ドイツ防衛線として国境に構築した要塞線です。
目次
フランス軍の戦略について
フランス軍は、防衛を重視しました。
軽騎兵師団と1939年に編成された機甲師団は、
軽戦車と重戦車大隊を持つ戦車旅団で編成しました。
つまり、歩兵支援目的で分けて利用しました。
ちなみにマジノ線は、大規模なマジノ線建設に莫大な予算がかかりました。
しかし、第2次世界大戦時はドイツ装甲部隊の進撃を止める事ができませんでした。
■1940年のフランス軍の組織図
①軽騎兵師団>騎馬兵旅団です。
②軽騎兵師団>騎馬兵旅団>騎馬兵連隊です。
③軽騎兵師団>機甲車連隊です。
④軽騎兵師団>自動車化歩兵連隊です。
①機甲師団>戦車旅団です。
②機甲師団>戦車旅団>戦車准旅団です。
③機甲師団>戦車旅団>戦車准旅団>軽戦車大隊です。
④機甲師団>戦車旅団>戦車准旅団>重戦車大隊です。
⑤機甲師団>自動車化歩兵大隊です。
フランスの基本戦略について
馬に乗った騎兵が時代遅れになっていたので、騎兵を装甲軍や軽戦車に乗り換えました。
1934年、軽機械化師団を編成しました。
1939年、軽騎兵師団は2つの騎馬兵旅団(4つの連隊です)、
1つの装甲車連隊、1部がタンケッテ(豆戦車です)入り
自動車化騎兵連隊(歩兵です)を主軸にしました。
1940年、騎兵戦車連隊の中で1つの軽騎兵師団が終了しました。
有事に歩兵の掩護目的として各歩兵部隊に分散配置をしました。
つまり、独立戦車大隊と同中隊も編成しました。
3つの騎兵戦車連隊と1部が1つのタンケッテ入り自動車化騎兵連隊を主軸にしました。
フランス陸軍は、防御面を最重視していましたが、
ドイツ軍が機甲師団を編成している事を素早く察知しました。
1939年、実際にドイツが進行する前に初めて機甲師団を結成しました。
機甲師団は、4つの戦車大隊、1つの戦車旅団、1つの自動車化歩兵大隊の編成です。
しかし、第2次世界大戦が始まると、連敗して
機甲師団の運用が1部しか機能できない状況でした。
結果的に歩兵部隊の掩護優先に移って、ドイツ軍によって撃破されました。
つまり、ドイツ軍の電撃戦に対応できませんでした。