日本軍の戦略について

日本は、戦車部隊が連隊単位で運用しました。

1930年以降は、機動兵力の集中運用に切り替えました。

当時の日本軍は、訓練が行き届いていたので迅速な命令に忠実でした。

戦車部隊と歩兵部隊が1度も協同演習をした事がないです。

それぞれに命令を遂行する事によって、最終的に歩戦協同に繋がりました。

目次

日本軍の戦略について

日本軍は、歩兵支援を重視しました。

整備や補給の利便性を考慮して、3つの戦車連隊をまとめた戦車団を編成しました。

戦車師団の中枢は、2つの戦車旅団です。

任務を応じて歩兵や工兵などの部隊を随時配置する事が可能です。

主に戦車旅団は、満州国でソ連軍と対峙した時に関東軍の兵力を基づいて構築しました。

 

■1933年の日本軍の編成

①戦車連隊→第1中隊です。

②戦車連隊→第1中隊→小隊です。

③戦車連隊→第2中隊です。

④戦車連隊→第2中隊→小隊です。

 

■1942年の日本軍の編成

①戦車師団→戦車旅団です。

②戦車師団→戦車旅団→戦車連隊です。

③戦車師団→別枠の戦車旅団です。

④戦車師団→機動歩兵連隊です。

⑤戦車師団→機動歩兵連隊→大隊です。

⑥戦車師団→機動歩兵連隊です。

⑦戦車師団→機動砲兵連隊→大隊です。

ちなみに機動歩兵は、機械化歩兵です。

日本の基本戦略について

1942年、太平洋戦争が開始して戦車師団を編成しました。

それぞれ2つの戦車連隊を含んでいる2つの戦車旅団、

3つの機動歩兵大隊を含んでいる1つの機動歩兵連隊、

10cm(センチメートルです)榴弾砲と75mm(ミリメートルです)野砲を

装備している1つの機動砲兵連隊です。

しかし、日本軍の戦車師団が大きな弱点がありました。

戦車性能自体が敵国(ソ連、アメリカ合衆国などです)に劣っていた事です。

機動歩兵や機動砲兵などの戦車を支援する部隊も貧弱でした。

 

機動歩兵は、日本がハーフトラックや全装軌式兵員輸送車の生産数が

かなり少なかったので、トラックに乗って移動せざるを得ない状況です。

当時のアメリカ合衆国やイギリスは、

歩兵師団傘下の部隊も実質的に全て自動車化していました。

特にノモンハン事件は、ソ連軍の砲兵火力と戦車兵力によって壊滅的打撃を受けました。

●ノモンハン事件は、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争です。

満洲国は、大日本帝国の傀儡国です。

モンゴルは、ソビエト社会主義共和国連邦の衛星国です。

 

第2次世界大戦末、装軌式車体を備えた自走式野砲と榴弾砲は、わずかに生産されただけです。

歩兵師団は、馬に曳かせていた砲をトラックで牽引するだけでした。

つまり、イギリスやアメリカ合衆国は歩兵師団レベルで当たり前に行われた事です。

戦車師団傘下の各部隊を要望に応じて派出しました。

新型中戦車の開発を加速しましたが、実戦レベルまで実装する事ができませんでした。

最終的に戦車師団は、師団単位で前線に投与できませんでした。

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